【悟り】は求めても得られない?!その【修行】は間違っています!

仏教



身心脱落に落ち着いた、道元の悟りとは?

 

こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。

 

さて、曹洞宗開祖の道元は、最終的には人は身心脱落すべきと唱えています。

 

「ダメだ、、、、意味不明、、、」

 

なんて言わないで下さいね。言葉が難しいだけで、仏教の本質はいたってシンプルなのです。そしてそのシンプルさを、ここでも私が現代語で簡単に紐解いていきます。

 

結論から述べます。

 

身心脱落とは、自我意識を捨てなさい、ということ。

 

人間の悩みの原因について具体例を示すと理解しやすいかもしれません。例えば、以下のような発想は多くの方々が抱いたことがある悩みだと思います。

 

「私はたくさん勉強しても頭が悪い。」

「私なんていくら練習しても上手くならない。」

「私は生きていても価値が無いのかも。」

 

最後は少々極端ですが、いわゆる悩みの種類としては少なくない内容ではないでしょうか。そして、この私はxxxという考え方自体が自我意識です。自我意識がどこから生まれるのかと言えば、他人と比べるからです。相手がいてこその自分の評価であり、比較対象がいなければ自我意識は存在しません。

 

この意識を捨てなさいと急に言われても、私たちは皆が社会の中で生きているわけですから、実際には不可能ですよね。学校に行けば成績が順位付けされ、部活をすればレギュラーと補欠に分けられ、会社にいけば同期と比べられる。常に比較が付きまとう以上は自我意識は無くなりません

 

それでは、道元はそんなことを教えたかったのか?

 

答えは、NOです。

 

道元は、教えを乞う全ての民にそんな無茶難題を押し付けたわけではありません。道元の言う自我意識を捨てなさいという真意は、そういった悩みがある時はとことん悩み、苦しい時はとことん苦しみなさい、ということ。

 

「、、、ん?それって矛盾してない?」

 

確かにそう思うかもしれません。でもよく考えてみると、悩みの種(つまり自分の劣等感など)はどうしても何時も存在するわけなので、その悩みを無くそうと頑張ることをやめなさい、とうことを言いたいのです。悩みや迷いを消そうとすることこそが、かえって自分を迷わせるから辛くなるだけ、そう道元は言いました。

 

ここで勘違いしてはいけないのは、努力をしなくて良い、ということではありません。

 

つまり、身心脱落とは悩みの種を消そうと馬鹿なチャレンジはせずに、その時その時でしっかり悩み、苦しんでいる自分の姿こそが悟りの中だということを知り、大いにその世界に身を委ねなさいということ。

 

悟りというと小難しいですよね。仏教ではよく使われる用語ですが、実際には多くの日本人が誤った解釈をしています。日本国民は世界でも類をみない完璧主義なので、悟り=仏教のゴールだと考えているのです。それも、無意識のうちに。

 

悟りの世界とは、あなた自身が、そうしてとことん悩んでる正にその心の世界であり、そのまま身を委ねて良いのです。

 

皆さん、どうですか?そう教えられると、色々な悩みや苦しみが、とても大切なものにさえ思えてしまいますよね。

 

道元は悟りを開いたのではなく、悟りとは何かを理解し、その世界に溶け込んだのです。

 



仏教に対する道元の最初の疑問と結論

 

前回の記事で、道元は仏教界の異端児だったと話しました。

 

ロジックが成立していない先人たちの教えは納得していなかったのです。

 

「仏教では人はみな仏性(=生まれながらにしてみな仏になれる)があると教えるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ辛い修行を皆しているのか」

 

このある意味究極の問いに答えれる比叡山の僧侶はおらず、道元自らがこの答えを探すために修行するのです。

 

「結果的に自分も修行するんかい!!」

 

という道元へのツッコミどころはさておき、最終的にしっかりと結論を出しています。

 

悟りを求めるための修行、は間違い。

 

悟りを求めて得られるものではない、ということ。

 

皆さんは先ほどの身心脱落の意味を学びましたから、ここでの解釈は容易ですよね。そうです。皆さんの悩んでいる世界そのものが悟りの中なのですから、その世界を意識して求めるという行為がいかに変なことかもうお分かりですね。

 

要するに、「悟りを求めている自己」を消し去り、悟りの世界が心の中にあるのですから、そこに溶け込むのです。悟りは開くものではなく、悟りの(悩みや迷いの)世界があるからこそ、人は修行(努力や鍛錬)できる、そう考えたのが道元です。

 

この記事の最後に、私が仏教に関して最も影響をうけた文献の著者・ひろさちや教授の表現を引用します。

 

「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。・・・(中略)・・・仏だという自覚があれば「自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない」と考えて、悪から遠ざかることができます。それが仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。

 

皆さんも、仏教と悟りについて、本当の意味がうっすらと見えてきたのではないでしょうか?難しいことではないのです。正しい解釈を知ることで、物事の見方といのは簡単に変わるのですから。

 

私もあなたも悩み多き人間ですから、この悟りの世界でとことん悩みを満喫していきましょうね!


 

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