【仏教】の本質はSEO対策と同じ?!常に相手の立場で物事を考えるという意識のススメ

仏教



菩薩(ぼさつ)の意味を正しく知る

 

こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。

 

早いもので、道元の教えシリーズも12作目となりました。ここまで全て読んでいただいた皆さんにおかれましては、本当に感謝感激・南無・阿弥陀仏です。

 

残念ながら今回がこのシリーズのセミファイナルとなります。

 

「え?!もう終わってしまうのですか?!あぁ、せめてもう少しだけ、御婿殿様、、、」

 

安心して下さい。仏教を学ぶという挑戦はまだまだ続きます。道元の教えをしっかりと理解した上で、御朱印巡りを始める予定です(すでに婿殿は神社仏閣を数か所回っていますので、まずはそちらから)。

 

さて、いよいよ大詰めですが、皆さんがよく見たり聞いたりする「菩薩(ぼさつ)」についてまずは簡単に解説していきますね。『正法眼蔵』を理解する上でも欠かせないキーワードとなります。

 

正式には「菩提薩埵(ぼだいさつた)」と言います。この省略形が一般的に知られている「菩薩」です。○○菩薩なんてよく仏像にも書いてありますよね?菩薩の意味は、悟りを求める人々です。

 

以下は理解が難しいので、皆さんはざっくり覚えてもらえれば問題ありません。

 

仏教には大乗仏教小乗仏教があり、前者は他人への利益のための修行後者は己一人の利益のための修行と置き換えられます。大乗仏教においては、この「菩薩」は出家・在家問わずに仏道を歩む者を指します。道元は勿論この大乗仏教を説きます。(ちなみに、小乗仏教では出家至上主義であり、在家信者は軽視されますのでやや対立が生じます、、、)

 

つまるところ、道元は大乗仏教の信者に対して、普段からどのように生活すべきかを教えてくれています。

 



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四つの実践

 

「菩薩」というと観世音菩薩などの仏様のようなイメージになってしまいますよね。しかし、それは間違いです。私も未だに違和感がありますが、仏道を歩む者全てが含まれます。要するに、私たちが悟りの世界に身を投じているのであれば、私達自身が仏になる前の「菩薩」ということです

 

道元は私達「菩薩」がなすべき四つの実践を説いています。道元の『正法眼蔵』より引用(訳・ひろさちや先生)します。少し長い文章ですが、日常のふるまいに直結するので非常に重要な教えです。

 

①布施(ふせ)

 

布施というのは不貪(ふとん)である。不貪とはむさぼらないこと。むさぼらないというのは、世間の人の言葉だとへつらわないことだ。たとえ自分が全世界を支配下に置く統治者となっても、人々に正しい道を教えるためには、不貪でなければならない。

 

たとえば、宝を捨てて見知らぬ人に施すようなものだ。(中略)教えであれ、財物であれ、それぞれの人が他人のために布施できるものを生まれながら持っているのだ。自分が何も持っていなくても、その人はむさぼらなければいいのであって、布施ができない道理はない。

 

そのものの値打ちが軽いからといって嫌ってはならぬ。それが役に立ちさえすればよいのだ。仏道は、その道なりに歩めば悟りにいたる。悟りが開けるときは、仏道をその道なりに歩んだときなのだ。(中略)間違いなくいえることは、みずからが過去に積んだ布施の功徳によって、現在の自分があることだ。

 

現在では布施=お坊さんに渡すお金、ですよね。しかし、仏教における布施とは、お金のような財も含まれるというだけであって、決して菩提寺側(お世話になっているお坊さんのお寺)の金儲けではありません。いいですか、皆さん。布施=お金ではありません自分の欲を捨てること自体が布施という修行なのです。

 

②愛語(あいご)

 

愛語というのは、衆生(←一般の人と思って下さい)に接したとき、まず慈愛の心を起こし、いたわりの言語をかけることだ。すべての暴言は慎むべきだ。世俗には安否を問う礼儀の言葉があり、仏道においても珍重=ごきげんよう、不審=お元気ですか?といった挨拶の言葉がある。

 

知るがよい、愛語は愛心より起こり、その愛心は慈悲の心を種子としている。愛語には世界を一変させる力のあることを学ぶべきであって、ただ相手の能力を賞賛するだけのものではないのである。

 

さすが道元先生。お見通しですね。「上司へのヨイショヨイショじゃねーんだよ」としっかり釘打っています(笑)

 

③利行(りぎょう)

 

利行というのは、身分の高下にかかわらず、すべての衆生に、さまざまな手立てを講じて利益を与えることだ。たとえば、遠い将来、近い未来を勘案して、他人を利する手段を講ずるのである。(中略)愚かな人は思うであろう。他人を利することを先とすれば、自分の利益がなくなる、と。そうではない。利行というのは自/他を超越した絶対的な実践であって、その利行において自己も他者も利益を受けるのだ。

 

もしこうした心が会得できれば、草や木、風や水がごく自然に、人々に無差別平等に利益を与えるといった利行の営みをしっかりとしていることが理解される。それはわれわれが草木風水から利行されているのである。利行とは、つまるところ自分の愚かさを救う自利の営みにほかならない

 

はい。道元先生の仰る通りで何も言えません。ただただ、しみじみとその意味を感じます。シリーズを全て読んできた皆さんは解っていると思いますが、自分も他人も、仏という同じ宇宙なわけです。自分だけの視点で考えるから損得が生れるわけであって、母体(宇宙、仏)の中でば結局はどちらも同じことなんです。

 

④同事(どうじ)

 

同事というのは「不違」である。自分を他人と違った存在と考えず、他人を自分と違った存在と考えないことだ。たとえば、人間界に出現された如来は、人間と同じ姿をとられるようなものだ

 

少し補足しておきます。例えば悪事があったとして、立場が変われば自分も相手と同じことをしたかもしれない、そう考えなさいということです。要するに、自分だったら~、自分のおかげで~、といった自分中心の考え方をせずに、常に相手の立場と気持ちを考えて発言しなさいということです。本当に現代の人々に届けたい教えです。

 

はい、以上です。いかがでしたでしょうか。

 

皆さんも私もすでに菩薩なわけですから、今後はこの4つの教えを念頭に普段から生活していきましょうね!!きっと多くの物の見方が変わってくるはずですよ。

 

合掌

 



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