仏教と【悟り】の本質を正しく学べば、あなたの【死生観】を大きく変えられる理由

道元の教え



正法眼蔵の基礎的思考・現成公案

 

こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。

 

なにやら冒頭の見出しから難しい四字熟語が出てきましたね(笑)

 

現成公案(げんじょうこうあん)。

 

今回も皆さんが理解しやすいように、ざっくりと、簡単に、私が説明していきます。もちろん文献を基に勉強しているので、勝手な解釈ではありません。皆さんになるべく解かり易いように崩してお伝えするのが役目だと考えています。

 

さて、この現成公案は道元が『正法眼蔵』を構築する上で外せない基礎の部分です。

 

これまでの記事でも述べましたが、道元は〈悟り〉というものを対象化することを拒みました。要するに、仏教信者の多くが修行で追及する、悟りを求めるや悟りを追いかけるという考え方が誤りだと言っているのです。誤りどころか、そのようなことをすべきでないと提言しています。

 

これは当時の修行僧からすると、衝撃的な理論ですよ。

 

これまでを全否定。

 

「お前さ、なめてんの、、、?なめてるよな?」

 

とブチ切れた僧が大半だったと容易に想像できますよね、、、。極端な話、当時の仏教を敵に回したようなもんです。

 

しかし、道元が誤った思想の持主だったのでしょうか?その答えは、今の世の中が証明しています。

 

曹洞宗開祖。

 

そうです。日本にこれほどまでに浸透した、仏教の一大宗派の一つにまで成長したのです。数百年という長い年月を越えても、なお今も。

 

現成公案とは何か、結論から述べます。

 

現実世界を、あるがままに認識する。

 

「ん?そんな簡単なこと?というか、むしろ当たり前じゃん!」

 

と普通は思いますよね。そして、それで良いのです。大切なことは、その当たり前のことを私たちが日常で意識できるかどうか、であると考えられます。

 

生は生。

 

死は死。

 

私たちは生きている間は精一杯生きればよい。老人になれば精一杯老いを生きればよい。病気になれば一生懸命病人として生きればよい。そして、死ぬときは一生懸命に死ねばよい。

 

皆さん、これも先ほどと同じように当たり前のことですよ?どうですか?

 

簡単ではありませんよね。

 

前の記事で述べた通り、私たちは大きな悟りの世界の中にいます。その中でおおいに悩み、苦しみ、そしておおいに楽しみ、幸せを感じるだけです。己と悟りは一体化しているのですから。

 

皆さんは、この道元の教えの意味を初めて知った方が多いのではないでしょうか。一般の方ならここまで仏教に深入りしていかないと思います。(事実、私自身も30歳を過ぎるまではそうでした。)

 

そして、この教えに気付けたのが悟りであり、気付けない人間が迷いの中にいるということです。

 

皆、人生を生きるという点においては、他人と同じ時間が経過し、同じ世界に存在します。

 

しかし、考え方に気付けるかどうかの僅かな差が、あなたを迷わせるかどうかの決定的な差になるのです。道元が民に伝えたかったのは、まさにこのことに尽きます。

 

実は、私も28歳で大きな病気を患いました。一生治癒することがない全身の病で、一時は主治医から余命まで宣告されました。現在も毎日その病で大変な思いをしています。

 

「どうして自分なんだろう。」

「みんなと同じように健康に生きたい。」

 

当時は病室のベッドの上で寝たきりの中、常にそう考えていました。この時点で自我意識ですよね。他人と比べているわけですから。

 

死とは本当に怖いものです。死が目前に迫っていることを知ると、本当に怖さしかありません。ですが、道元に出会い、そして『正法眼蔵』を理解し、仏教の本当の解釈を知ったことで、私自身が考え方を大きく変えることができたのです。怖いものと怖いと悟る、それが真の悟りであり、それでよいのです。

 

だから私は精一杯、病人として生きます

 

この病気のことはまた別の機会に話しますが、私はもう、精一杯健康な生き方をすることはできません。しかし、精一杯病人として生きることができるのです。ありのままの肉体を受け入れ、その肉体が持つ限り精一杯生きるだけです。

 

道元は時代を超越して、私を救ってくれたのです。

 



日本人の完璧主義が、仏教の本当の理解を妨げる

 

道元についての研究者・ひろさちや先生は、著書で仏教と英語学習を同じように捉えており、とてもユーモアがあります。

 

私達日本人がなぜ世界の中でこれほどまでに英語が苦手かと言えば、理由はすでに明らかとなっていますよね。

 

完璧主義だからです。

 

日本人は英語を完璧に使わないといけないと思い込んでおり、多くの日本人が自ら進んでは英語を話しません。私もそうです。

 

「だって、文法が、、、語彙が、、、、間違っていたら恥ずかしいもん!」

 

ですよね。ですが、海外では子供のうちから普通に間違えまくっても話しているそうです。そして、少しずつ修正して覚えていく。これは、英語圏の赤ちゃんだって初めは話せないわけで、同じ流れですよね。

 

仏教もこれと同じであるということを、ひろさちや先生が的確に述べています。仏教は完璧に学んでから使うものではないのです。この記事の結びとして、先生の言葉から引用しておきます。

 

完全な悟りを得たあとで、仏教的に人生を生きようとするのは、魚が水の世界を全部知り尽くしてから泳ごうとするようなものです。われわれは、ほんのちょっとした悟りが得られたら、その悟りを使って人生を生きればよい。そういう態度で仏教を学ぶべきだ。道元はそう教えてくれています。

 

仏教のために人生があるのではありません。どうも現代日本の禅僧のうちには、そう考えている人が多いようですが、それはまちがっています。人生のための仏教なんです。私はそう思います。

 

いやいや、ここまでくるとさすがに深いですよね。

 

いかがでしょうか。ここまで読まれた方は、すでに道元が何を言いたいのか理解できていると思います。そして、この基礎の考え方があってこそ、次の記事からの中身が容易に理解できます。それでは、次回またでお会いしましょう!

 

合掌。


 

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