あなたは本当に【無宗教】ですか?正しく【宗教】を学ぶ・選択することの必要性について考える

仏教



生と死

 

こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。

 

「迷いの中に悟りがあれば、迷いはなくなる。」

 

「迷いの中に悟りがなければ、迷いに迷うことはない。」

 

いきなり難関な教えが出てきましたね、、、。実はこの言葉は道元ではなく、道元が共感した禅師達の会話だそうです。

 

過去の記事を読んで道元の教えを学べば、あなたもこの解釈を難なくできてしまいます。ちなみに、道元はこのことを庶民にも解りやすいように言い換えているので、今回はそれを伝えていきます。

 

迷い=生死

 

悟り=仏

 

はい。以上です。たったこれだけ置き換えれば終了です。それでは冒頭の会話をさっそくこの単語で置き換えてみましょう。

 

「生死の中に仏があれば、生死はなくなる。」

 

「生死の中に仏がなければ、生死に生死することはない。」

 

はい。若干意味不明です、、、。私なんかは冒頭の方がまだ理解できた気さえしてしまします。

ですが皆さんは安心して下さい。道元の教えについて、ひろさちや先生が以下のように訳されています。

 

生から死に移ると考えるのは間違いである。生は一時の在り方であり、その中に先があり後がある。それ故、仏法においては、生がすなわち不生だと言う。滅(死)も一時の在り方であって、その中に先があり後がある。したがって、滅がすなわち不滅と言うのだ。

 

生というとき、生のほかに何ものもなく、滅(死)というとき滅(死)のほかに何ものもない。したがって、生きているときはただひたすら生に向かい、死ぬときは死に向かって、しっかりと対応すればよい。死を忌避すべきではないし、生を願ってもならぬ。

 

生きること、死ぬことに対する考え方が、何か根本的に違いませんか?

 

私はこの教えを知ったとき、自分の病気に対する考え方が大きく変わりました。そして死ぬことが怖かった毎日が、雲がなくなって晴れた瞬間のように、一瞬ですっきりしました。

 

宗教や宗派の選択

 

結局は、人生において、生きるも死ぬも考え方です。

 

勿論、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教などは考え方が違うはずです。同じ仏教でも宗派によって捉え方が違うのですから、当然(というか自然)のことですよね。

 

私が思うに、人は無理に宗教の考え方に合わせるのではなく、自分が一番楽になれる考え方の宗教を選ぶべきです。先祖代々その宗教だからでなく、自分自身の考えで動くべきではないでしょうか。

 

「宗教」とあまり連発していると、日本人の皆さんにとっては響きが悪いかもしれませんね。私もかつではそうでした。しかし、この感覚は明治から始まった日本政府の教育方針に帰着します。要するに、他人(政府)の教えに従っている時点で、それは宗教と何も変わらないということです。

 

世界の人々を見て下さい。無宗教と呼ばれる人が地球上にいったい何割いるのでしょうか?そもそも根本的な話をすれば、無宗教というのは存在しません。

 

日本人の中にも「仏や神は根拠が無いから信じない」と言い張る人が散見されます。そうであれば、何をもって日本人の仕来たりに従うのか。日常の仕来たりのすべてが何らかの宗教的な意味を持っているのが実情です。結局のところ、無宗教とは本人の意地なだけではないでしょうか。

 

少し脱線しましたが、後天的な宗教の選択についてひとつ例を挙げます。

 

私の住む地域で、一族すべてが先祖代々の仏教から、神道に移行した人達がいます。

 

「この罰(ばち)当たりめ!!」

「親族の恥だ!!!」

 

実際にこのように批判する周囲の御老人も多かったと聞いています。そして何より、菩提寺(檀家だとすれば、いつもお世話になっているお坊さん)が許さなかったと思います。

 

しかし、その一族の人達は神道に移行して、本当に人生が楽になったと言っていました。

 

実は神道も具体的には細かくわかれており、その発祥には歴史的背景があるのですが、その話は仏教のカテゴリーでは触れません。(今後のシリーズで考えていますが、神道もかなり深いです、、、。)

 



仏教とは、複数の宗派(教え)の集合体であるにすぎない

 

ここで矛盾していることを言ってしましますが、私は仏教が絶対的に正しいとは思いません。

 

私独自というより、日本はこの柔軟な捉え方が非常に上手いのです。キリスト教なども普通に共存しており、クリスマスなどが良い例ですよね。肉の食文化もごちゃまぜです、、、。仏教が絶対的に正しいと思い始めれば、すぐにでも宗教戦争になります。それは歴史が証明しています。

 

私は仏教の中のひとつ、道元の教え(現在の曹洞宗に相当する←ダジャレではありません!!)に共感しているだけです。

 

偶然にも婿入りした先が曹洞宗というだけで、そこから道元に辿り着きましたが、宗派に拘るつもりはなく、道元の考え方を取り入れたに過ぎません。

 

しかし、自分の中では人生に大きな変化をもたらし、それで本当に良かったと思っています。あいにく僧のように自力で修行できるような健康状態ではないので、ただその教えを心に植え付けただけですが、道元はそれで良いと言っています。

 

この記事の最後は、この「自力」に対して、再びひろさちや先生の著書から引用しておきます。

 

道元が語っっているのは、意外に思われるかもしれませんが、他力の思想です。自己のすべてを仏の世界に投げ込めば、仏のほうからの働きかけがあって、それに隋っていけば悟りに到達するというのですから、これは明らかに他力の教えです。

 

しかし、自力というものを、100パーセントの自分の力(人間の力)によるものだとすれば、それは仏教ではありません。いや、宗教ですらない。仏教というのは、まず最初に仏の力の働きかけがあって、その上に自分の力を加えていくか、あるいはまったくすべてを仏の力に委ねるかのどちらかです。前者が自力で、後者が他力です。だから道元は、間違いなく自力の仏教者です。

 

禅問答のようですが、実に的を得ていると思います。

 

今回は、生と死に対する道元の教えが私達にとって一番身近な気がしますので、あえてクローズアップしてみました。次回もお楽しみに!

 

合掌。


 

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