道元の【正法眼蔵】を学んで人生観を見直すべき?!人間の見ている世界だけが全てではないことの証

仏教



人間が見ている世界だけが全てではない

 

こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。

 

いよいよ道元シリーズも終盤に差し掛かって参りました。これまでの記事で、仏教に対する考え方が少しでも変わっていただけたでしょうか?

 

仏教とは、この世界(物質的な宇宙という括りにおいても)を単に回りくどく(←表現が少し悪いですが、、、)論じているだけとすら思えてしまいます。オカルト的な宗教色は薄く、当たり前のことを別の視点で論じているところが多いわけです。それ故、日本やインド、中国などを始めとする多くの人々が自然に受け入れたのかもしれませんね。

 

道元の教えの中にも、このような世の中の当たり前のことを、別の視点から論じている部分があります。その内容について、ひろさちや先生が現代語で解り易く訳させているので引用します。(※道元があなたに向かって説いていると思って下さい。)

 

昔から、誰とも知らず言われていることがある。それは、魚でなければ魚の心を知らず鳥でなければ鳥の飛んだ跡を尋ね難いというのである。この道理にしても、よく知っている人は稀である。

 

「ん?何を言い出すんだ?」

 

はい、もう少し続けていきます。

 

人間は魚の心を知ることはできないとだけ思っている人は、知り方がよくない。本当の知り方は、魚と魚であれば、必ず互いにその心を知ることができるということだ。人間が魚の心を知らないのとは違って、龍門(ここを登った魚は龍になると信じられている難所)を遡ろうと思ったとき、仲間にそれがわかり、同じ一つの心になるのである。九浙(きゅうせつ:龍門の直前にある曲がりくねった流れ)を泳ごうとする心も通じ合って相互に分かるのだ。これは魚でなければ知ることのできないものだ。

 

魚同士が意思疎通し合っているというのです。私は鯉が滝を登るシーンよりも、現実的にサケが遡上するシーンを回想してしましましたが、確かに仲間意識があるように思えてなりません。

 

現代では魚に対して「本能で~している」とよく表現していますが、道元が言うように、私達人間が勝手に、魚が何も考えていない生き物と見下した解釈をした結果ではないでしょうか。群れで大きな魚に疑似化して泳ぐのが果たして本能なのでしょうか?大海原を自由に泳いだあと、死ぬ間際になって生まれた川に正確に戻って産卵するサケは、本当に本能だけの行為なのでしょうか?

 

もっと言えば、魚が自由に泳いでいると思う事さえ、人間が勝手に決めた人間だけの目かもしれません、、、。

 

また、鳥が空を飛ぶのも、ほかの獣には、その足跡を知り、その跡を見てたどるといったことは、いまだ夢にも思わないことである。足跡があると知らないのだから、そんなことは思ってもみない。ところが、鳥であれば、小さな鳥が幾百千羽と群がり過ぎて行き、さらには大きな鳥が幾列にもなって南に去り、北に飛ぶ跡がしばしば見られるところである。車の跡が道に残り、馬の足跡が草の上に見えるよりもはっきりしているのだ。鳥は鳥の跡を見ているのである

 

ようやく最近になって解明してきた渡り鳥の研究結果で、まさにこの事(鳥同士の会話や空の道)に触れているのです。科学の力がなくとも、道元は物事の本質を見抜いていたようですね。

 



唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)

 

魚や鳥に対するこの考え方は、最終的に仏として結論付けられます。

 

この内容についても、ひろさちや先生の訳をそのまま引用します。道元の教えの総括に近づく章です。

 

仏が幾世にもわたって修行されたと思われることは、小さな仏も、大きな仏も、数え切れぬあまたの仏がすべて知っておられるのだ。しかしそれは、仏にならない以前は、どのようにしても知ることができない。なぜ知ることができないのか、と言う人がいるかもしれない。仏の眼(まなこ)でもってして、はじめてその跡が見えるのであって、仏でない者にはその眼がそなわっていないからである。

 

要するに、魚でないと魚は理解できない、鳥でないと鳥は理解できないのと同じで、仏でないと仏が理解できないと言っているわけです。私達がどんなに頑張ても魚や鳥にはなれませんから、一生かけても魚や鳥は理解できません。しかし、仏性が備わっている人間は、仏にはなれるわけです。道元はこれを強く言いたかったと考えられます。

 

仏がものを数える数え方がある。それを知らないわれわれ凡夫(←簡単に言えば人間のこと)は、すべて仏が歩んだ路の跡をたどっていけばよいその跡がもし目に見えるようになれば、自分は仏になったのだと思って、その跡を比べてみるがよい。比べることによって、仏の足跡を知ることができ、仏の足跡の長い/短い、浅い/深いも知ることができる。

 

道元が人生観を述べているのがおわかりでしょうか?私はこれを読んだ時、論破された気分でした。西暦1200年という大昔にこういった内容を論じたわけですよ。現代でも全く通用する哲学です。

 

道元は最後に人生論として、このようにまとめています。

自分の足跡、すなわち自分が歩むべき道を明らかにすることは、仏の足跡、仏が歩まれた道を推量することによって可能となる。この足跡を得ることが、仏法というものである。

 

皆さん、もうおわかりでしょうか?自分自身の将来に対する考え方を説かれているのです。

 

これが、仏教の本質です。

 

「神様、仏様、御先祖様、どうか私をお守り下さい。」

 

と手を合わせて祈るだけの人達がいかに無知であるか。私はこの記事を読んでいただいている皆さんには、ぜひこの仏教(道元の言う仏法)の本質を正しく認知して欲しいと願っております。

 

合掌。


 

続きはこちら☟

お坊さんを信用できますか?その御布施は高すぎ?人格者の僧侶を見極める必要が出てきた現代