日本のタブー?!仏教の【不殺生戒】と【死刑制度】の矛盾点を紐解く

仏教



道心(どうしん)

 

こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。

 

このカテゴリーでは、あなたの仏教に対する偏見を少しでも無くしたい一心で、道元の教えをなるべく優しく解説してきました。今回で7記事目となりますが、仏教ではこの7は大変重要な数です

 

ちなみに、四十九日(しじゅうくにち)法要は葬儀後の代表的な法事ですが、四十九日と記載するのは正しくは誤り、ということを御存知でしょうか。

 

「えーーーーーー!!そうなの?!結構四十九日という文字を目にするのに、、、。」

 

というリアクションを期待したいところです。

 

実はこの四十九日、正しくは7日間×7=49という意味です。要するに、七七日と書くのが本当の記載方法です。「しちしちにち」ではなく「しじゅうくにち」と呼びます。読めない人が多すぎるので、葬儀会社などは四十九日と記載するのが一般的となってしまいました。(なぜ7日間を7回繰り替えすか、その理由についてはとても長くなってしまうので別の機会に説明します。)

 

話が脱線してしまいましたが、さっそく本題に入りますね。

 

ここからいよいよ、仏教が本格的な哲学の世界に突入しますよー!

 

「あーーー、、、もう難しい話になるならパスで、、、」

 

大丈夫です。安心して下さい。本格的なところは研究している先生方に任せましょう。皆さんはざっくりとで良いので、まずは正しく知ることが目的です。(本格的に学びたければ、私と同じように文献等を買って読んで下さい。ただし、古文も多く混じるので読破に時間を費やすことは覚悟して下さいね、、、。)

 

さて、道元が『正法眼蔵』の中で道心(どうしん)という考え方に触れています。

 

結論から言えば、仏法を先とする心です。

 

「ん?つまり、どーゆーこと?」

 

はい。ここで極端な例を挙げますね。

 

私もあなたも、道元の教えをこうして学んでいるわけですが、いざとなると現実主義(つまり世の中の都合を優先してしまうということ)なんです

 

例についてズバリ言ってしまいますが、日本の死刑制度です。

 

「なんで死刑と仏教が関係あるのよ、、、」

 

いいえ、大いに関係しているのです。

 



不殺生戒(ふせっしょうかい)

 

日本は仏教国家と言っても過言ではありません。多くの家庭に仏壇があり、多くの家庭で亡くなれば火葬し、供養を行います。つまり仏法を重んじているわけですよね?

 

しかし皆さん、ここからが重要です。

 

仏教では、そもそも「不殺生戒(ふせっしょうかい)」があります。これは仏教の戒律のなかで最も重いもので、これを犯して生物の生命を絶つこと(殺すこと)は仏教界から追放されるというものです。

 

要するに、死刑は廃止すべき、となります。(私個人の解釈ではなく、ここでは仏教の視点から客観的に述べているという点に十分注意して下さい。)

 

仏教国家である日本も、お釈迦様発祥のインドにおいても、死刑は当然のように施行しているわけです。死刑を廃止すれば凶悪犯罪が増えると分析する専門家も多く、仏教者でありながら死刑の存続を支持しているのが実情なわけです

 

いいですか、皆さん。本来であれば日本も仏教から追放なわけです。

 

しかし、実際は違いますよね。死刑は何百年も前から合法化されているわけです。要するに、仏法よりも世間の都合(ここでは凶悪犯罪を増やしたくないという理由)を優先させていることになります

 

「そもそも死刑になるほどの重い罪を犯したのがそもそも悪いじゃないか!」

 

確かにその通りです。その通りではありますが、道元からすれば、その考え方自体が道心がないということになります。今回はあえて解り易いように死刑という例を挙げましたが、要するに、自分がいかに不利益であっても仏法を優先させる心を持ちなさい、と道元は教えているのです。

 

この道心、言うほど簡単なことではありません。皆さんもそれはわかりますよね?

 

不殺生戒が良い例で(死刑は本当に極端でしたが)、私達は日常において食べること自体が生命を絶つ行為なわけです。牛、豚、鳥、羊、馬、魚、、、挙げたらきりがありません。

 

勘違いしてほしくないのですが、本当に戒律を守っている僧も大勢います。仏教信者であれば、仕方が無いでは済まされず、本来であれば守るべきだと思います。

 

「やっぱり宗教って面倒くさいなぁ、、、、仏教もどうでもいいや」

 

そう悲観しないで下さい。これまでの記事にも伝えましたが、道元の願いはそのように悲観的に考えさせることではありません。

 

完璧に守れなくて良いのです。

 

道心、つまり、自分よりも仏法を優先する心を、少しずつ少しずつ育てればいいのです。ざっくり言ってしまえば、「オレだオレだオレだ====!!」という自己主張の強い人間にはなりなさんなよ、ということですね。常に、「自分の考えは○○〇に導かれた結果です(←オカルト信者でなく、因果応報の意味で)」と謙虚に捉えなさい、と道元は言っているのです。

 

この記事の結びとして、道元の教えを引用しておきます。

 

世も末ともなれば、真実の道心者など滅多にいるものではない。だとしても、さしあたり心を無常にかけて、この世のはかなさ、人の命の危うさを忘れぬようにすべきだ。けれども、そうしたとて、自分は世のはかなきことを考えていると思ってはならない。しっかり心を決めて、仏法を重くし、わが身、わが命を軽くすべし。仏法のためには、身も命も惜しまないことだ。

 

道元は、道心を唱えてはいるものの、やはり現実がどうなのかをよく理解しています。引用文はこのことを端的に述べた内容だと思います。屁理屈ばかり禅問答している僧とはこの点で明らかに異なるのです(怒られてしまいそうですが、、、)。

 

近代思考の道元に益々魅力を感じませんか??今後も続きますのでぜひお楽しみに!!

 

合掌。


 

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【四十九日】【七七日】法要の意味を正しく理解するためには、死後の世界観を学ぶ必要がある