『正法眼蔵』の由来
こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。
さて、前回の記事では曹洞宗の開祖・道元が何を目指していたのか、基礎の基礎から触れていきました。
仏教、ブッダ、お釈迦などの単語に抵抗感のある方も多いかもしれません。ですのでなるべく、優しい言葉だけを選んで、私が文献から得た知識を皆さんに伝えていきます。
まずは『正法』。
実はこれ、その漢字の意味の通りです。簡単ですよね。適当に教えているわけではありませんよ(笑)!
ただし、正しい法とは、正しい仏教と解釈して下さい。要するに、仏教とはお釈迦様(ブッダ)の教えという意味なので、正しいお釈迦様の教え、という意味です。
はい、これだけです。
基本的に、お釈迦様の教えは、経典という形で書物で残されています。誰でも経典を開けば、その教えを読むことが可能です。
ここで重要なことは、読んだ=理解できた、があなたの中で成立するかということです。勉強というものは全て同じですよね。読むことと理解することは別物ですから。ただでさえ難解な文章が続く経典を、一般の人が正しく理解することは実質不可能です。
極論を言えば、お釈迦様の教えを一般人が自力で理解することは不可能なわけです。
しかし、それでは仏教がいかに素晴らしい考え方であったとしても誰にも浸透しませんよね?ましてや何百年前も昔の話です。まともな教育すら受けていない村人が大勢いた時代です。
そこで道元は考えたのです。
民衆が自力で理解できないのは、根本的な考え方がそもそも身についていないからであり、考え方からまずは教えていく必要がある、と。
考え方=捉え方、ですよね。仏教の教えを読んだ際の、大事な大事な根っこの部分の捉え方を丁寧に指導するわけです。
つまるところ、それはあなた自身の眼が育つということです。読んでいるのは、眼ですから。
ここまでの話を繋げてみましょう。
正しい教え(=正法)は、経典(=蔵の中に保管)に残され、読む者の賢い眼をもって理解する。
これが『正法眼蔵』という用語となった由来なです。とても簡単ですね。
道元は、仏教を教えるにあたり、出家しているお坊さんと一般の民を差別しませんでした。万人に知って欲しいと願っていたのです。
宗教とは、時に残酷です。それは歴史が何度も証明していますよね。
金、戦争、詐欺、略奪、迫害、、、これらはすべて宗教の違いから生じるネガティブな面です。結局これらは、自分達個人や団体の利益が望めるから、非道にも行われてきたわけです。
道元は利益を求めません。ですから、僧だけが救われれば良いという発想もありません。つまり、全ての人間にこのお釈迦様の教えをただただ理解してほしい(勿論、正しく。)と、その一心で『正法眼蔵』を書きました。
『正法眼蔵』は未完の書
マジか、、、
そうなんです。実は未完です。
道元は全百巻を構想に入れて書き始めましたが、結論としては、54歳という若さでこの世を去ってしまったのです。(本当は専門用語で示寂(じじゃく)と呼びますが、初級編なので意図的に使いません。)
つまり、志半ばで終わってしまったといのが史実なのです。
未完である『正法眼蔵』で、ここまで日本全国にわたって曹洞宗を普及させることになったのですから、言い換えればそれだけ万人に受け入れられた考え方であり、それが道元の目的でもあったわけです。
もし、完結していたのなら。もし、すべての教えが無事に伝わっていたのなら。とタラレバを考えてしまいますよね、、、。おそらく、日本人の仏教に対する価値観は大きく変わっていたかもしれません。
道元という偉大な開祖の死後、弟子たちによって曹洞宗は引き継がれたわけですが、未完ということでその解釈が独り歩きしてしまい、多くの争いが起こったのも事実です。結果的に現世の曹洞宗というのは、この争いで勝ち残った派閥の考え方、というわけです。詳しくはまた別の機会に。
曹洞宗と道元の考え方は、大きくは異なりません。しかし、曹洞宗を理解すること=道元を理解すること、ではありません。このあたりが複雑なのですが、イコールでない理由が文献にも示されています。
実はロジカルな思考を持つ異質な僧・道元
意外かもしれませんが、道元はお坊さんでありながら、かなりの理系です。
私は、道元は仏教界の異端児だと思っています。当時からすると、恐ろしいほどに現代人の発想に似ています。要するに、ロジックが成立していない教えには納得しないわけです。
ほら、皆さん!!このあたりからイメージが変わってきませんか??
私が強烈に仏教に惹きつけられた理由のひとつは、まさにこのロジカルな道元を知ったからです。教えに対する単なる信者でなく、その教えの根拠を説明(証明)して下さいよ!という破天荒な僧です。
はっきり言いましょう。
「本当かよ、それ、、、」と考えながら修行している僧が、現在もたくさんいるはずです。
洗脳されているわけではないので、それぞれ人として成長しているわけです。ロジックが成立していなければ、いかに教えだと上から説法されてもすんなり納得できないと思いませんか?
仏教も会社も同じということです。
この記事の最後は、そんなロジカル思考の道元のエピソードに触れて終わりますね。
道元は14歳で出家し、初めて修行に向かった先の比叡山(これまた有名ですね)で、さっそく先輩達に噛み付きました。(狂犬です、本当に、、、)
「人は産まれながらにして仏の性質(=仏性)を持っているので、そのままで仏である。」
これが仏教のメインの考え方なのですが、そこで狂犬・道元。
「そのままで仏なのに、なぜ、皆さんは仏になろうとして修行しているのでしょうか?」
「お釈迦様の教えとしては、既に仏ってことですよね? 皆さん、それなのに仏になりたいって、言っていることとやっていることが矛盾していませんか?」
この時、比叡山で答えれた僧は一人もいなかったそうです、、、。
私は修行僧を馬鹿にしているわけではありませんよ。ただ、こういったエピソードが実際にあったわけで、実に興味深い問答だとは思いませんか?
さぁ、あなたは早くも初級編でおもしろさに気付いてしまいましたね。次回の記事もお楽しみに!!
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